読者の仕事
※考えに耽ってしまう記事が続いております。
夏祭りの時期故に、でしょうか?
寄生?
id:unterweltさんのid:unterwelt:20040813の記事を読み、
更に回想に耽っております。
補完や妄想は実際読者視聴者の仕事です。商業側が本来組する
事ではありません。これは同人活動の舞台の幾許かがネットに
移った昨今でも変わらぬ基本姿勢な筈なのです。
にも拘らず、何故勘違いする人が時にいらっしゃるのか。
筆者が愚考するに、その禍根はサムライトルーパー同人繚乱時代に
迄遡るのでは無いでしょうか。
●○●
商業資本によるパロディ同人誌アンソロジーというものが産声を
上げたのは筆者が確認する限り1987年1月。ふゅーじょんぷろだくと
から刊行された『つばさ百貨店』を嚆矢とします*1。
それと前後して聖闘士星矢アンソロジーも発行される様になり、
出版社では青磁ビブロス(現BIBLOS)が産声を上げました。
青磁ビブロスが力を蓄えたのは数多の同人誌アンソロジー発行に
よるものだった、と言っても過言では無いでしょう。
その時点までは辛うじて同人誌と商業誌の垣根は一応あった*2のです。
その状況が変な風向きに変わったのは、サムライトルーパーや
天空戦記シュラトの(やおい主体の)同人誌勢力が伸びてきた
辺りではなかったかと思われます。
サムライトルーパーが嚆矢だった筈です。同人サイドの描き手を
多人数商業誌に起用してファンブック等を華美にしていたのは。
かつてみのり書房がOUT増刊アニパロコミックス(APC)*3誌上に
於いて『あくまでも同人側はパロディー』という基本姿勢を
(暗黙の内に)掲げていたのに対し、その頃アンソロジーや同人
作家起用に参入してきたラポートやムービック*4等は『同人(作家の
描く内容)で商業側で描かれなかったものを補完する』と言う
姿勢を持っていた様に思われます。
その姿勢が、禍根を残す因だったのではないでしょうか?
*1:「アンソロジー」の名称が使われた嚆矢もふゅーじょんぷろだくとでした。87年7月に刊行した『つばさ5段活用』の表紙コピーがそれです。
*2:ロリコン漫画方面では曖昧な状況があったらしいと聞きますが、世間一般にまでその状況が流出する迄には至っていなかった様です。
*3:情報参照 http://homepage2.nifty.com/out-site/
*4:アニメイトグループ傘下企業。 http://www.movic.co.jp/book/
補完≒パロディー≠妄想
さて、サムライトルーパージャンルに於いて同人誌と商業出版が
近づく事で、読者の選択肢は広がったのでしょうか?
同人誌もカバーできた読者にとっては是であると思われます。
一般読者にとっては否であったでしょうが。
確かにやおいの過剰な蔓延を防止できた*1と言う堅気の人に
とっては有り難いメリットはありました。が、その反面で
ギャグや同人誌ならではの冒険についてもアンソロジー再録に
あたって規制があったものと思われるのです。
偏見承知で敢えて言いますが、その当時の同人誌アンソロ
ジーは原典補完の為に商業側に利用された面もあるのでは
無いでしょうか?サムライトルーパーについては特にそう
思えます。天空戦記シュラトはその点で結構寛大でしたね。
再録アンソロジーではやおいもギャグもきちんとカバーして
ましたから。商業側のお遊びもありましたしね*2。
●○●
ここでid:XQO:20040812#1092316383の内容を反復します
同人側による補完と言うのは読者視聴者としての願望が
同人作家の手によって形になったものです。それはあくまでも
個人の内面における補完なのです。
全ての人に通用する外伝や続編とは成り得ないのです。
天空戦記シュラトジャンルの同人誌アンソロジーでは、
まだ同人側の補完と商業側の補完に辛うじて一線が引かれて
いました。
が、サムライトルーパーに於ける商業資本の同人的な
活動を見渡すと…同人側の補完(≒妄想)と商業側の
補完を混同視してしまった動きが一部とは言え存在した
様子が見えるのです。
これが今日まで影を落としているのだとしたら、
一寸切ないですね。
筆休め
本屋に入りまして、『おおきく振りかぶって』
を探したのですが見つからず、代わりに見つかった
『ヤサシイワタシ』を一読してみました。
…………。
『おおきく振りかぶって』は、買いの一冊ですね。
普通のマンガとして読み込める一冊であろうと
確信が持てました。
自分が作品に対してどう向き合えるか再確認するのも、
読者の仕事です。
深くて暗い川なのか
やおいとボーイズラブ…内側に居ればなんと無く
判る区別ですが、外側の方から観れば一緒にしか
観えないものでしょう。
最近は内側に居ても判別し難くなる時もありますが。
大雑把に言うと、キャラクター設定を他所から借りてくる
物語が「やおい」、物語の1から10まで全部自分で組み上げる
ものの内愛情表現の描写をやや抑え目にしたものが
「ボーイズラブ」と言うものだと理解して戴きたく。
最近はオリジナル設定のものであれば概ねボーイズラブと
いう表現でも差し支えない様ですが。
参考に『電脳やおい少女』第2巻を読んでもよろしいかと。
この区別を踏まえた上で妄想というものを認識しないと、
腐女子は誰しも今回の書店さんのPOPの様な顰蹙される
弾け方をしてしまうと思うのです。
どんなにネットや同人誌の世界で勢力分布が拡大した様に
見えても、やおいは本来個人的な妄想由来のものです。
その中でのジャンルと言うのは、嗜好の最大公約数で
括られたものなのです。だからこそ受攻論争なんてものが
存在する訳でして。
ボーイズラブじゃない物まで、公側がボーイズラブに
仕立て上げないで下さい。
好きな萌えは、自分達で探せますから。
暴走の果て
今、傍らのTVから『ビエンナーレ*1』と言う単語が聞こえまして…。
おたく:人格=空間=都市
http://www.jpf.go.jp/venezia-biennale/otaku/Yaoi-CON公式ページ
http://www.yaoicon.com/
国際的な公の暴走と、アメリカの腐女子さんの爆発を思い出しました。
国際的な芸術祭でOTAKUが紹介される。其れも賛否両論なのでしょうが、
OTAKUの美意識として『侘び』『寂』『萌え』『へたれ』『ぷに』
『やおい』と言うのは、流石に暴走しすぎでしょうと思うのですよ。
美意識にやおいを掲げる割には関係展示は一切無さそう…いや、
あっても対応に物凄く困るのですが。関係者らしき名前も見えませんしね。
こう言う点での比較は失礼なのでしょうが、YAOI-CONの方がその点では
まともと言えばまともかも知れません。ゲストに日本からちゃんと
関係作家さんを招聘*2してますから。
日本の腐女子を置き去りに世界の文化の潮流は流れてゆくんでしょうか
…せめて一声かけて欲しい様な、嫌な様な複雑な気分です。