鱧の如く鰻の如く
相変わらず様々書いていて思う事は、堅気の人がやおい等を知ろうと
する場合、理解の思考回路に引っかかる小骨が多すぎるんじゃないか、
と言う事です。内側では常識の様に語られている言葉ではあっても
外側にしてみれば未知なる言葉だったり、或いは言葉の持つニュアンス
の温度差があったりもします。
id:izumino:20040802#p2の記事を拝見していて、その思いを強くしました。
内側からは確かに幅広い世界が広がっていると言う認識がありますが、
外側の(悪意を持ってみる人は余計に)一元化した認識しかもって
下さらないのですよ。
『外側に対しての啓蒙書』と言われているらしいこの本は、実際の所
内側に対しての念押しと言う評価を得るに止まりました。
せめて草の根レベルでも鱧の骨切りや鰻の小骨取りの様な下拵えをして、
外側になるべく正確に情報を伝える努力をするべきなのかも知れません。
情報の解釈まで関知できないにしても、でしょうね。
鏡よ鏡-id:izuminoさんへの追伸-
id:izuminoさんへのお返事は先様のコメント欄にて。言葉が足りたか
どうか今一つ不安ではありますが。恐らく今まで指摘されていたで
あろうにも拘らず、内側からは努めて無視しようとして来た部分では
ないかと感じています。
少し言葉をここで足させて戴きます。私信で済みません。
筆者はやおい書きでもあるのですが、個人的な意見として
『自分自身への直視無くして作品を生み出す事は出来ません』
と申し上げておきます。
自分自身を直視した上で作品として再構築すると言うのが作者に
なった時の筆者のせめてもの良心です。作者の内面=作品ではなく、
作者の内面を蒸留して抽出されたもの=作品だと認識しておりますので。
ではその残り滓はどうなるのか?
無駄に蓄積はされません。その残滓が再発酵をして、思わぬ美酒が
生まれる事もまた時にあるものですから。全ては、無駄にならずに
血肉になるものですよ。